『左官』の歴史
【左官の起源は縄文時代】 (紀元前)
左官の起源は縄文時代と言われています。
縄文時代の住居は竪穴式住居でした。
竪穴式住居の壁は、土を団子の様に丸め積み重ねた土塀(どべい)と言われるものでした。
作業は素手で、もちろん『左官』という職名はありません。
【土壁や白い壁は飛鳥時代から】 (592-710年)
現代でいう『伝統左官』で使用される 土壁(土にわら等を混ぜたもの)や
漆喰(石灰を主原料に作られたもの。お城の白い壁など)は飛鳥時代から使われる様になります。
【左官鏝(こて)は奈良時代に伝わってきた】(710-794年)
奈良時代には仏教や技術が唐から伝わってきました。左官鏝はこの時持ち込まれたもの
だと言われています。
この時代に建てられた寺院の壁は、鏝によって土壁や漆喰が施工されています。
ここから長い年月をかけて日本独自の鏝が造られていき、現在では世界でも群を抜く種類の鏝が日本にはあります。
【『左官』の語源は平安時代】(794-1185年)
この時代は法令制度が用いられ、長官(かみ)次官(じかん)判官(すけ)属(そうかん)
からなる四等官制度というものがありました。
宮廷に出入りするためにはこの四等官の官位が必要です。
修繕工事などで宮廷を出入りする壁塗り職人は四等官の一つである属(そうかん)の官位が与えられ
ました。これが訛って現在の『左官』になったと考えられています。
他にも大工が『右官』と呼ばれていたからという説がありますが、文献などでは確認されていません。
【安土桃山時代にはデザイン性も】(1467-1603年)
色土(土に色をつけたもの)が用いられ、土の色をコントロールし始めました。
また聚楽壁(聚楽土、わら、すさ等複数の材料を混ぜたもの)もこの時代のもので
茶室などで使われる様になりました。
【左官が花形職種だった江戸時代】(1603-1868年)
江戸時代の三大花形と言えば『左官』『大工』『鳶(火消し)』です。
粋でいなせな仕事をしていたことから華の三職と言われ大変人気の職種だった様です。
またこの時代は城の壁全面を漆喰で塗るなどして耐火性が飛躍的に上がりました。
【セメントは明治時代から】(1868-1912年)
明治8年に日本で初めて高品質のセメントが製造されました。
江戸時代後期期も輸入セメントは存在しましたが、余りにも高額な為国産化をはかりました。
そのおかげでコンクリート造の技術が発展し、明治44年には日本初の全RC造ビル
(旧三井物産横浜ビル)が建築されます。
また現代では高価な『洗い出し』や『研ぎ出し』といった左官工法もこの時代に考えられたと
推測できます。
【左官職人が急増した昭和】(1926-1989年)
戦後間も無い頃の左官屋は資材が高額な為セメントに土などを混ぜて使用していたそうです。
しかし昭和30年頃から始まった高度経済成長期でばんばんビルが建ち初めます。
この時代に大きく成長できた建設系の会社は多いでしょう。
左官職人も地方から集団就職などで都会に大勢集まりました。
また昭和後期のバブル時は、左官屋に所属している1職人の給料が月に100万円を超えることも
しばしばだった様です。
江戸時代に続き昭和も人気の職業だったことが伺えます。
【平成の職人離れ】(1989-2019年)
2008年のリーマンショック(世界規模での景気悪化)により建築件数が激減しました。
建物が少なくなり仕事がなくなった職人は地元に帰ったり、他の職種に就いたりしていき
職人の数が減りました。
またITバブルなどで人気の職業が移り変わり、人気職から左官は姿を消します。
【現代の日本の左官】(2021年)
左官ってなに?
かつては花形と呼ばれた『左官』も若い年代では知らない人も多いでしょう。
昭和の左官職人は高齢になり引退。
建設業界全体の人気の低下で新しい成り手も少ない。
もう建築に左官は必要なくなる なんて言う人もいます。
しかし現在でも建物を建てる上では欠かせない職種なのです。
コンクリート造や木造の建築物がある限り左官の技術は必要です。
現在の日本ではかつて人気だった漆喰が見直されたり、内装の仕上げとしても左官は人気です。
そしてその左官技術は日本の左官職人達が長い年月をかけて独自に作り上げたもの。
日本が誇る世界最高峰の技術ではないでしょうか。
左官タイルに特化した建設会社
北島工業株式会社
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